浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない 〜 一トポロジストの異論

菊池 和徳

2002-03-28 作成(2009-04-26 更新)


0 導入

 浅田 [A] は近代における貨幣−資本の循環運動などをクラインの壺のモデルで表現した。山形 [Y] は浅田 [A] のクラインの壺のモデルは循環運動のたとえとしては間違っていると批判した。山形 [Y] の批判に対しいくつかの反論や疑問が寄せられたが,黒木 [K] は数学の立場から山形 [Y] の批判を援護した。黒木 [K] の援護が決定打となり,浅田 [A] のクラインの壺のモデルは間違っているが浅田 [A] の内容そのものは間違っていない,という説が広まっているようである。

 実はそのような説こそ間違っている,というのがこの小論の主張である。この小論の目的は,山形 [Y] の批判と黒木 [K] の援護に対し異論を述べ,浅田 [A] のクラインの壺のモデルが数学の立場から見てもたとえとして間違っていないことを示すことにある。ただし,クラインの壺の有効性などモデルとしての問題点には触れない。この小論の意図は,浅田 [A] を弁護することにはなく,むしろ,「『「知」の欺瞞』ローカル戦」を支持するが故に拙速な「ローカル戦」を憂慮し苦言を呈することにある。いやしくも『「知」の欺瞞』の「ローカル戦」を標榜するなら,少なくとも『「知」の欺瞞』程度に慎重かつ周到であるべきである。

 論者はトポロジストであり浅田 [A] のような文献に慣れていない。(学生時代に「ナナメ読み」した程度である。)したがって,この小論が誤解を含む可能性を否定はしない。建設的な批判を甘受し主張を修正することに吝かではない。

 この小論の構成は次の通りである:第 1 節で山形 [Y] と黒木 [K] に対し異論を述べる;第 2 節で数学的な準備をもとに主張を正確に述べる;第 3 節で主張の根拠および主張による解釈を述べる。

 以下,浅田 [A] のクラインの壺を《クラインの壺》で表す;トポロジーのクラインの壺を〈クラインの壺〉で表す;〈クラインの壺〉を3次元空間で擬似的に実現したものを〈擬似クラインの壺〉で表す;〈擬似クラインの壺〉から自己交叉でできる円板を切り取ったものを〈似非クラインの壺〉で表す。


1 異論

 1.1 で山形 [Y] に対する異論,1.2 で黒木 [K] に対する異論,1.3 で両者の前提に対する異論,をそれぞれ述べる。

1.1 山形 [Y] に対する異論

 浅田 [A] の《クラインの壺》に対する山形 [Y] の批判とその根拠を要約すると次のようになる。

山形 [Y] の批判:

《クラインの壺》は貨幣と商品の循環のたとえとしては間違っている。

山形 [Y] の根拠([A; p.215] の図 2 による):

Y0:《クラインの壺》の中をものは循環しない。口のところにあったものが吸い上げられると上のわっかを通って底にたまってしまう;逆に,底にあったものが吸い上げられると上のわっかを通って口のところから下に落ちる。

Y1:図の点線のところをものは通り抜けられない(面があるから)。

Y2:《クラインの壺》の口に膜はない。

Y3:口のところがラッパのようにとがっている。

 Y0 から,山形 [Y] は《クラインの壺》=〈似非クラインの壺〉と解釈していることがわかる。(註:〈擬似クラインの壺〉では,「口」と「わっか」をつなぐ管の中に自己交叉による円板の壁があって,「口」と「わっか」の間をものは行き来できない。)しかし,この解釈は《クラインの壺》の図のみによるもので,浅田 [A] の文脈に反する。浅田 [A] は《クラインの壺》について

と述べているのに対し,〈似非クラインの壺〉は3次元空間における図形だからである。したがって,山形 [Y] の批判は浅田 [A] の文脈に反するものである。(註:〈クラインの壺〉の図として便宜的に〈擬似クラインの壺〉の図を用いることは,疑似性を断った上でなら,トポロジーでもよくあることである。)

 蛇足ではあるが,《クラインの壺》=〈似非クラインの壺〉という解釈の下であっても(Y1 と Y2 は正しいが)Y3 はトポロジー的には何の問題もない,ということを付け加えておこう。トポロジーでは切ったり穴を空けたりせずに一方から他方へ連続的に変形できる二つの図形は同一視されるからである。(例えば,トポロジーではとがった三角形とまるい円板は同一視される。)

1.2 黒木 [K] に対する異論

 山形 [Y] の浅田 [A] 批判に対する黒木 [K] の援護とその根拠を要約すると次のようになる。

黒木 [K] の援護:

《クラインの壺》=〈擬似クラインの壺〉である。(以下は好意的解釈。)山形 [Y] は〈似非クラインの壺〉を使って浅田 [A] の間違いを面白おかしく指摘しているのである。山形 [Y] の根拠を〈擬似クラインの壺〉に合わせて少し修正すれば山形 [Y] の批判はそのまま成り立つ。

黒木 [K] の根拠:

K1:浅田 [A] は通常の壺の内と外の関係と〈クラインの壺〉の内と外の関係を対比しようとしている。

K2:〈クラインの壺〉の内と外という概念は〈クラインの壺〉を3次元空間で擬似的に実現した〈擬似クラインの壺〉に対してのみ意味を持つ。

 K2 は数学(幾何学)的に正しい。K2 に関する黒木 [K] の説明にも全く問題はない。

 K1 は浅田 [A] の文脈では正しくない。おそらく,《クラインの壺》=〈擬似クラインの壺〉あるいは「内/外= 3 次元空間における内/外」という先入観に引きずられた誤読であろう。以下,このことを説明する。

 K1 は浅田 [A] の次の箇所の引用に基づいた黒木 [K] の解釈である。

A1:「……人々は金を壺に入れて棚の上に退蔵するかと思えば祝祭の場で惜しげもなくバラまいてみせた……」[A; p.195]
A2:「……《クラインの壺》は外部をもたない,というよりも外部がそのまま内部になっている……」[A; p.199]

 ところが,引用は近代モデルとしての《クラインの壺》においては前近代的な二元論的対立がなしくずしにされるという文脈の節(表題は「クラインの壺---二元論の終焉」)にある。前近代的な二元論的対立の説明は引用の前節(表題は「内と外---二元論の神話」)にある [A; p.192]。したがって,A1 は「世俗の時間/祝祭の時間」という前近代における時間の二元論的分割に関する記述であり,A2 の「内部/外部」とは前近代における空間の二元論的分割のことである。さらに,これらの時間と空間の分割は「象徴秩序/カオス」の対立によってなされ,「象徴秩序/カオス」は紡錘形の前近代モデル [A; p.188] の「上半の部分/下半の部分」によって表される [A; pp.191--192]。要するに,A2 の「内部/外部」とは紡錘形の前近代モデルにおける「上/下」という空間の分割のことであり,〈擬似クラインの壺〉の3次元空間における「内/外」とは関係ない;A1 は「上/下」という空間の分割の一時的解体(祝祭)に関する記述であって,「通常の壺の内と外」(K1) とは関係ない。

 紡錘形の前近代モデルを幾何学的に少し変形して得られる《クラインの壺》の「オルターナティヴ・モデル」がこの章の補足-2 [A; pp.207--210] にある。「オルターナティヴ・モデル」においては紡錘形の上半部分=内部と下半部分=外部に相当する部分がつながっており,「外部がそのまま内部になっている」(A2) ということの意味が明解にわかる。

 以上の考察により,黒木 [K] の援護の根拠 K2 は数学(幾何学)的に正しいが根拠 K1 は浅田 [A] の文脈に反する,ということがわかる。したがって,黒木 [K] の援護も浅田 [A] の文脈に反するものである。

1.3 山形 [Y] と黒木 [K] の前提に対する異論

 山形 [Y] の批判にしても黒木 [K] の援護にしても,《クラインの壺》=曲面(2 次元の広がりを持つ図形),という前提で議論している。「クラインの壺」を,文脈を十分に把握せずに,〈似非クラインの壺〉あるいは〈擬似クラインの壺〉と解釈してしまい,曲面であるという前提を疑わない。

 ところが,数学用語が非数学的文脈で使われた場合,定義通りに使われている保証はなく,文脈に応じて解釈する必要がある。特に,日常語から採用された数学用語の場合はなおさらである。例えば,「球面」は数学的文脈では球の表面のみを意味するが,容器と見なす非数学的文脈では中身も込めた球体を意味することもあり得る。

 浅田 [A] の文脈では,《クラインの壺》は壺という容器なのである。実際,次のような記述がある(詳しくは第 3 節で説明する)。

浅田 [A] は《クラインの壺》の「中」も込めて議論しているのである。

 では,《クラインの壺》の「中」とは何か?それを正確に説明するには数学的な準備が必要である。数学的な準備は次節で行う。ここではヒントを述べるに留める。《クラインの壺》の「中」を考えるためのヒント:通常のドーナツの表面をトポロジーではトーラスと呼ぶが,トーラスを容器と見た場合トーラスの「中」とは素朴に考えた場合何か?


2 主張

 2.1 で数学的な準備をし,2.2 で主張を述べる。

2.1 数学的準備

 主張を述べるための準備として,〈クラインの壺〉などの図形を 4 次元時空に実現するための‘映画’の方法について説明する。ただし,ここで説明する‘映画’は通常のものと多少異なり,主張をわかりやすくするために工夫を加えたものである。(註:トポロジーの通常の‘映画’では‘時刻’全体は閉区間であるが,ここで説明する‘映画’では‘時刻’全体は円周である。)

 xy 平面上の単位円周 x2 + y2 = 1 は点 (cos t, sin t)(t は実数)全体である。(cos t, sin t) は t が 360 度ずれても同じ点を表すから,閉区間 [0,360] で 360 = 0 と見なしたものを単位円周と思うことができる。同様に,目盛の取り方を少し変えて,閉区間 [0,2] で 2 = 0 と見なしたものも単位円周と思える。以下,特に断らない限り円周と言えば単位円周のことであり,(円周)=(閉区間 [0,2] で 2 = 0 と見なしたもの)とする。(註:数学的には [0,2] の代りに [0,1] でも [0,2π] でもよい。[0,2] を採用したのは以下の説明をわかりやすくするためである。)

 xy 平面から原点を取り除いたものは原点を出発点として円周上の点 t を通って無限にのびる半直線の集まりである。各半直線は原点を含まないから,1 次元空間と見なせる。1 次元空間が円周の目盛分だけ集まった無限にのびる円筒形を(1 次元空間)×(円周)で表すことにする。この円筒形は(xy 平面)−(原点)として xy 平面に実現できるから,(1 次元空間)×(円周)は 2 次元平面内にあると見なせるわけである。同様に,(2 次元平面)×(円周)は 3 次元空間内にあり,(3 次元空間)×(円周)は 4 次元時空内にあると見なせる。

 3 次元空間内の平面上に円周 C を置く。円周 C の 1 点を中心とし半径が円周 C の半径より小さい円板 D を円周 C に直交するように置く。円板 D を,中心が円周 C 上にあり円周 C と直交するという条件を保ったまま,円周 C に沿って 1 回転させる。こうしてできた回転体を〈中身の詰ったトーラス〉と呼ぶ。さて,円周 C 上の点 t を‘1 周すると元に戻る時刻’と考え,(3 次元空間)×(円周 C)を‘始まりと終わりがつながっている映画’と考える。‘映画’の‘時刻’t における映像は点 t まで動いた円板 D だけであるとする。すると,この‘映画’は円板 D の円周 C に沿った回転運動を映し出す。上で説明したように‘映画’は 4 次元時空内にあると見なせるから,‘映画’が映し出す円板 D の回転運動の軌跡も 4 次元時空内にあると見なせる。4 次元時空内に〈中身の詰ったトーラス〉を実現することができたわけである。円板 D の代りに円板 D の円周のみを取り同じ回転運動を考えると,4 次元時空内に〈トーラス〉を実現することができる。(註:実は数学的には円板 D は全く動かなくてもよい。円板 D が円周 C に沿って動くとしたのは回転体に合わせたいという気分による。)

 同様に,次の‘映画 1’を見てみよう。‘映画 1’が撮影された場所は xyz 空間。‘時刻’t = 0 における映像は xy 平面の原点を中心とする半径 1 の円板。‘時刻’t,0<t<1,における映像は点 (0,0,t) を中心とする半径 1-t の xy 平面に平行な円板。‘時刻’t = 1 における映像は点 (0,0,1) のみ。上記以外の‘時刻’t(1<t<2)における映像はなし。‘映画 1’は実は [A; p.215] の図 1 の〈円錐〉(中身の詰ったもの)を 4 次元時空に実現したものに他ならない。〈円錐〉の底面=円板が,‘時刻’が経つにつれ上方に平行移動すると同時に小さくなって行き,ついには消滅してしまう,というストーリーを見ることができる。(註:実は数学的には円板は小さくなるだけで平行移動しなくてもよい。円板が平行移動するとしたのは〈円錐〉に合わせたいという気分による。)

 図 1 の隣の図 2 を参照しながら,‘映画 2’を見てみよう。撮影された場所も主役の円板も‘映画 2’と同じだがストーリーは少し異なる。‘時刻’t = 0 で底面にいた円板は,‘時刻’t,0<t<1,では‘映画 1’とほぼ同じように上方に平行移動すると同時に小さくなって行くが‘映画 1’ほどは小さくならない;‘時刻’t = 1 では 1 点に縮まず図 2 の「貨幣」のところにいる;‘時刻’t,1<t<2,では右方の細い管に沿って下方に移動すると同時に破線に沿ってしだいに大きくなって行く;‘時刻’t = 2 ではもとの底面に重なるが表裏が逆になっている(表裏の反転は〈中身の詰ったトーラス〉では起らなかった);そして始めの‘時刻’t = 0 に戻り同じストーリーを繰り返す。‘映画 2’で 4 次元時空に実現される図形を〈中身の詰ったクラインの壺〉と呼ぶ。円板の代りに円板の円周のみを主役にして同じストーリーで‘映画’を撮影した場合,4 次元時空に実現される図形は〈クラインの壺〉に他ならない。(註:実は数学的には円板はほとんど動かずに最後の一瞬でひっくり返るだけでよい。円板が大きさを変えつつ移動するとしたのは図 2 に合わせたいという気分による。)

 ‘映画 2’を‘映画 1’と比較すれば,〈中身の詰ったクラインの壺〉が〈円錐〉を少しだけ幾何学的に変形したものであることがわかる。〈中身の詰ったトーラス〉と〈中身の詰ったクラインの壺〉の違いは,円板が 1 周して元に戻ったとき表裏がそのままか逆になるかの違いしかない。1 周もしない‘時間’における円板の軌跡はどちらも〈中身の詰ったチューブ〉であり,両者は局所的には違いがないのである。まったく同様に,〈トーラス〉と〈クラインの壺〉も局所的には〈チューブ〉で違いはない。

 上では‘映画’の方法を正確に説明するために数式を少し使ったが,‘映画’で表現される図形を理解するためには数学的素養を必要としない。図形の一部が動いてできる軌跡を想像できさえすれば十分である。したがって,浅田 [A] が〈中身の詰ったクラインの壺〉を理解しているとしても不思議はない。実際,浅田 [A] が「クラインの壺の作り方」[A; pp.207--208] を〈チューブ〉を使って説明しているのは流体が流れる〈中身〉を念頭に置いているからである,と好意的に解釈することも可能である。(浅田彰は他所で「クラインの壺の底面というのも,チューブの断面とまったく同じこと」と述べている。)

2.2 主張

 《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉。ただし,浅田 [A] は,〈中身〉=〈中身の詰ったクラインの壺〉−〈クラインの壺〉を循環運動の場としてゴムボールの中身のような閉じた空洞と考えていると解釈する:《クラインの壺》=〈クラインの壺〉+〈中身〉。そして,この解釈の下で浅田 [A] は自然に読める。したがって,浅田 [A] の《クラインの壺》のモデルは間違っていない。(註:モデルとしての必然性や有効性には議論の余地が残るが,この小論では論じない。)


3 根拠

 3.1 で《クラインの壺》が〈中身〉を含むと解釈できる根拠を挙げ,3.2 でその解釈の下で浅田 [A] が自然に読めることを例証する。

3.1 《クラインの壺》が〈中身〉を含むこと

 《クラインの壺》が〈中身〉を含むと解釈できる根拠を3つ挙げる。

・《クラインの壺》が〈中身〉を含むと読める記述が浅田 [A] にある:

・《クラインの壺》の [A; p.215] に商品世界としての底面が描かれている:

〈クラインの壺〉/〈擬似クラインの壺〉/〈似非クラインの壺〉に底面はないが〈中身の詰ったクラインの壺〉は底面を含む。

・前近代モデルとしての《円錐》も〈中身〉を含む:

 《円錐》の図 [A; p.188] の〈中身〉に線分が描かれているからである。3次元の立体の変形がいきなり2次元の曲面になっては不自然である。したがって,《円錐》の変形である《クラインの壺》も〈中身〉を含む。

3.2 解釈の自然性

 《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉という解釈の下で浅田 [A] が自然に読めることを 3 箇所の引用と解釈により例証する。解釈では 2.1 で説明した‘映画’の記述を援用する。

浅田 [A; p.196]:

「それ(近代資本制における脱コード化の運動の基本型:引用者註)を図2の《クラインの壺》で表わし,図1と対比することにしよう。この図に示す通り,貨幣は,中心といっても静止した超越的な原点ではなくいわば吸入口のようなものであり,すべてはそこから絶えざる運動の中に吸い込まれていく。」

解釈:

貨幣(ここでの貨幣はモノでなくシステムであろう)は点でなく‘時刻’t = 1 における円板の円周=吸入口であり,‘時刻’t = 0 で円板の内部にあった点は‘時刻’の経過とともにその吸入口に吸い込まれ絶え間ない循環運動を続ける。

浅田 [A; p.215]:

「マルクスがそれ(価値形態論:引用者註)に続く流通論で述べている通り,貨幣はたえず再投下されて商品に化身し,売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり,神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字どおり死に金にすぎないのである。ひとたびメタ・レベルに隔離されていた筈の貨幣がオブジェクト・レベルの只中に姿を現わし,そこからまたメタ・レベルへとジャンプする。貨幣−資本が展開する,この絶え間ない運動を,これもまた以前に論じたように,図2の《クラインの壺》によって図示することにしよう。」

解釈:

‘時刻’t = 1 で円板の内部にあった貨幣(ここでの貨幣はモノであろう)は,資本として再投下されることによって‘時刻’t = 2 で元の底面の位置の円板の内部=商品世界に商品として現れ,その商品は売れることによって商品世界から離れ再び‘時刻’t = 1 で貨幣に戻る,という絶え間ない循環運動を続ける。

浅田 [A; p.220]:

「ふたつ(媒介/自己:引用者註)のレベルをパタンパタンと交替させながらこけつまろびつ走り続ける「主体」たちの競争過程が,そのつどパラドキシカル・ジャンプを繰り返しながら進行する貨幣−資本の運動過程と同型であることは,あらためて指摘するまでもない。」

解釈:

‘時刻’t = 0 で円板の内部にいた自己 s1 は,‘時刻’t = 1 で目標としていた媒介 S1 に追いついたと思ったら,‘時刻’t = 2 で別の自己 s2 と化し別の媒介 S2 を目標とし追いつこうとする,というように近代の「主体」は自分自身に追いつこうと走り続ける。媒介/自己という二つのレベルを交互に交替させる「主体」の競争過程は,貨幣/商品という二つのレベルを交互に交替させる貨幣−資本の運動過程と同型である。自己 s1/媒介 S1 が《クラインの壺》の〈中身〉を1周して元に戻ると別の自己 s2/媒介 S2 と化すことは,商品 s1/貨幣 S1 が《クラインの壺》の〈中身〉を1周して元に戻ると別の商品 s2/貨幣 S2 と化すこと(流通論)と同型である。このことは幾何学的にはどの‘時刻’t の円板も1周して元に戻ると元の円板に重なるが表裏は逆になる (2.1) ことに対応している。(註:最後の一文は好意的解釈と言うより解釈者好みの深読みかも知れない。)


[付記:2009-04-26]

 ふとしたきっかけで,久しぶりに山形氏の文章 [Y] を目にする機会があったが,2004年8月20日付けで前口上の追加があることに気づいた。私の〈中身の詰ったクラインの壺〉説だと「『お金』の点が…不連続に反転しないと話がなりたたない」から「局所的な…連続性が成立しないように思えてきた」のだそうだ。いまだにご理解いただけないようなので,‘次元’を一つ落として説明してみよう。

 紙テープを適当な長さに切って両端を180°ひねってくっつけた図形〈メビウスの帯〉を〈中身の詰ったクラインの壺〉と思ってみよう。すると,紙テープの縁の平行線が〈クラインの壺〉に相当し,紙テープの縁を除いた部分が〈中身〉に相当する。〈メビウスの帯〉は局所的に見ればどこもかしこも元の紙テープの一部だから「連続性が成立しない」などということはない。くっつけたところも,もちろん,つながっている。くっつけたところの線分は〈メビウスの帯〉の平行な縁に垂直であるが,その線分上の点を平行な縁に平行に局所的に少し動かしても「不連続に反転」などしない。「不連続に反転」するのは,くっつけたところから〈メビウスの帯〉を一周して元のくっつけたところに戻ったときである。局所的な「連続性」と一周して元に戻ったときの「不連続」な「反転」性を混同してはならない。同じように,〈中身の詰ったクラインの壺〉においても,局所的には「連続性」があり「不連続に反転」などせず,〈中身〉を一周して元の位置に戻ったときに一周前の残像から見て「不連続に反転」するのである。

 蛇足だが,〈メビウスの帯〉の平行な縁は一つの円周であるから,二つの〈メビウスの帯〉の平行な縁同士を(4次元以上の空間で)くっつけることができる。こうしてできた図形こそ〈クラインの壺〉に他ならない。ちなみに,〈メビウスの帯〉の平行な縁=円周と円板の縁=円周をくっつけた図形は〈射影平面〉と呼ばれる。


文献

[A] 浅田 彰『構造と力』勁草書房

[Y] 山形浩生「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか,浅田式にはめぐらないのだ)」

[K] 黒木 玄「浅田彰のクラインの壺について」+本異論に関する議論


履歴

2009-04-26:付記および議論へのリンクを追加。
2008-07-30:リンクを削除・修正。
2002-04-05:リンクを追加。
2002-04-03:表現を修正して公開。
2002-03-28:作成。


KIKUCHI Kazunori <kikuchi@math.sci.osaka-u.ac.jp>