松本佳彦

2015年3月5日更新

微分幾何学を主な研究領域としています。漸近的双曲計量(asymptotically hyperbolic metrics=AH計量)や漸近的複素双曲計量(asymptotically complex hyperbolic metrics=ACH計量)と呼ばれるある種のリーマン計量を備えた非コンパクトな多様体上における、さまざまな幾何解析的問題に取り組んでいます。とりわけ力を入れているのは、ACH計量に対するアインシュタイン方程式の研究です。

以下、AH/ACH計量の幾何解析的研究の状況を概観したいと思います。

AH/ACH計量とは何か、基本的な問題意識

AH計量というのは、無限遠方において曲率テンソルが双曲空間のそれに漸近するようなリーマン計量のことをいいます。つまり、断面曲率が負の定数に漸近するということです。同様にACH計量というのは、無限遠方において曲率テンソルが複素双曲空間のそれに漸近するリーマン計量です(なおACH計量を与えることができる多様体は実偶数次元のものに限られますが、複素多様体には限定されません)。

これらは1970年代後半からアメリカやフランスを中心に研究されてきました。90年代の終わり頃からは、理論物理学における「AdS/CFT対応予想」のWittenによる数学的定式化においてAHアインシュタイン計量が登場するという点からも一定の注目を受けるようになったようです。

AH/ACH多様体$(X,g)$に付随する最も重要な概念に、共形無限遠(conformal infinity)というものがあります。この概念を導入するためには$(X,g)$に「共形コンパクト性」と呼ばれる付加的な条件が必要なので、以下ずっとこれを仮定します。そのとき無限遠境界$\partial X$は滑らかな多様体となりますが、さらに$X$上のAH計量は$\partial X$に共形構造を誘導し、$X$上のACH計量は$\partial X$にCR構造を誘導します。これらの「共形構造を備えた$\partial X$」あるいは「CR構造を備えた$\partial X$」のことを共形無限遠と呼びます。たとえば、双曲空間$\mathbb{RH}^m$、複素双曲空間$\mathbb{CH}^m$では、共形無限遠は球面$S^{m-1}$、$S^{2m-1}$に標準的な共形構造、CR構造を与えたものに他なりません。

AH/ACH多様体上の幾何解析的問題は、しばしば、共形無限遠に関する境界値問題として定式化されます。そして目標となるのは、境界値問題の解空間や個々の解の性質と、多様体の位相的/コホモロジー的な性質、および共形無限遠の幾何との関連を見出すことです。

AH/ACH多様体の幾何解析のはじまり——複素モンジュ・アンペール方程式の研究

この文脈に位置づけられる最初の例は、Feffermanによる次の論文です。

この論文では、$\mathbb{C}^m$の有界強擬凸領域における、「複素モンジュ・アンペール方程式」と呼ばれる非線型楕円型偏微分方程式に対するディリクレ問題の形式羃級数解の構成が考察されました。このディリクレ問題を考えることは、われわれの立場から言えば「有界強擬凸領域$\Omega\subset\mathbb{C}^m$上で、境界$\partial\Omega$を共形無限遠とするACHアインシュタイン計量であって、しかもケーラーなものが存在するか」と問うことに相当しています(なお、この状況では$\partial\Omega$には自然なCR構造が備わっています)。

その結果わかったのは「形式羃級数解が存在するとすれば、あるオーダー以下の部分は境界の局所的な形状だけで一意的に決定される」ということでした。Feffermanはさらに、この形式羃級数解の“一意的に決定される部分”を用いて$\partial\Omega$上の局所CR不変量が系統的に構成できることを指摘します。

一方で形式羃級数解ではなく大域解については、その存在と一意性がChengとYauにより証明されました。しかも、その大域解には境界においてある程度の滑らかさがあることもわかりました。

Cheng–Yauの大域解が境界正則性を持つことは、この解が境界におけるある漸近展開を持つことを意味します。そして、漸近展開のあるオーダー以下の部分は、Feffermanによる形式羃級数解の“一意的に決定される部分”に他ならないことも直ちにわかります。つまりFeffermanによる$\partial\Omega$の局所CR不変量の構成は、Cheng–Yauの大域解によっても問題なく実行できることになります。こうして、複素モンジュ・アンペール方程式のディリクレ問題の大域解と境界の幾何学的不変量のあいだに、ひとつの結びつきが確立されることとなりました。

以上に述べた流れは、次に挙げる論文でさらに深められ、非常に多くの局所CR不変量が複素モンジュ・アンペール方程式の解を用いて構成できることがわかりました。しかし、局所CR不変量の記述はまだ完成には至っていません。

またFeffermanとGrahamは、複素モンジュ・アンペール方程式の研究から得られたアイディアに基づき、AHアインシュタイン計量(あるいは、それとほぼ等価な概念である「アンビエント計量」)についても形式級数解を構成し、それを用いた局所共形不変量の研究を開始しました。これは現在では、共形幾何学における標準的な方法のひとつになりました。実4次元の場合の先行研究であるLeBrunの論文も合わせて挙げておきます。

なお後で詳しく触れますが、AH計量に対するアインシュタイン方程式の大域解の存在問題は未解決です。ACH計量についての同様の存在問題も、上述のCheng–Yauの結果こそありますが、より一般の状況では同様に未解決の問題として残っています。

もうひとつの流れ——Melroseの「$b$幾何」の応用として

前項で述べた複素モンジュ・アンペール方程式に関する研究では、計量が定義される多様体のコホモロジー的性質は登場しませんでした。AH/ACH多様体の幾何解析においてそういう側面が初めて現れたのは、MazzeoによるAH多様体の調和微分形式の研究だと思います。この論文では「$p<(m-1)/2$のとき、$L^2$調和$p$次微分形式の空間は相対コホモロジー群$H^p(\overline{X},\partial X)$に同型である」ということが証明されました。いわば調和積分論のAH多様体版です。

Mazzeoの結果は、Melroseによる「$b$幾何」の方法——特異計量を備えた多様体上における幾何学的散乱理論の一般理論——の応用によるものです。$b$幾何の方法は、特異性を持つ計量に関するラプラス型の作用素について、そのグリーン核が「真に棲んでいる」核関数の空間を論じます。次の論文も参照してください。

$b$幾何はACH計量の解析にも適用されています。その嚆矢となったのはLeeとMelroseの論文で、ここでは複素モンジュ・アンペール方程式のCheng–Yau解が対数項を含む漸近展開を持つことが証明されました。$b$幾何によるACH計量へのアプローチは、さらにEpstein、Melrose、Mendozaの論文で整備されました——というより、Cheng–Yauタイプのケーラー計量に限られない「ACH計量」(この言葉は用いられていませんが)という考察の枠組み自体が、Epstein–Melrose–Mendozaによって提起されたと言うのが正確です。

FeffermanとMazzeo–Melroseから始まった2つの流れは互いに交わるようにもなりました。その著しい例は、GJMS作用素(山辺作用素やパニッツ(Paneitz)作用素の高階化)が自己随伴作用素であるということの、GrahamとZworskiによる証明でしょう。GJMS作用素は初めFefferman–Grahamのアンビエント計量を通じて1991年に定義されましたが、その基本的な性質として期待された自己随伴性には、証明が与えられないままでした。GrahamとZworskiはMazzeo–Melroseの仕事を用いて、GJMS作用素をAHアインシュタイン計量に対する散乱行列のスペクトル・パラメタに関する留数としてとらえ直し、系としてこの問題を解決しました。

アインシュタイン方程式の大域解について

AH/ACH多様体の幾何解析について2つの源流を紹介しました。その発展の姿として触れるべきトピックはいろいろありますが、ここでは最も根本的な問題のひとつである、アインシュタイン計量の存在問題を取り上げることにします。「境界付き多様体において、境界に共形構造やCR構造を与えたときに、それを誘導するAH/ACHアインシュタイン計量を多様体の内部に構成せよ」というものです。形式級数解についてはFeffermanとGrahamの仕事がありますが(なお一般のACH計量の場合については松本がやりました)、ここで問題にしたいのは大域解です。

$\mathbb{C}^m$の有界強擬凸領域$\Omega$で境界$\partial\Omega$に標準的なCR構造を与えた場合には、すでに述べたようにCheng–Yauの結果が知られています。他に、双曲計量や複素双曲計量の摂動に関する次の仕事も以前からありました。

双曲空間$\mathbb{RH}^m$にはよく知られた「開球モデル」がありますが、その境界である球面において共形構造を標準的なものからわずかに変化させたとき、それに応じて双曲計量をわずかに変化させて、新しい共形構造を誘導するようなAHアインシュタイン計量を構成することができるというのがGraham–Leeの結果です。その証明は、逆関数定理によってアインシュタイン方程式の線型化に対する解析に帰着されます。Biquardはこの結果の改良を与えるとともに、ACH計量の場合を含む一般的な設定のもとで類似の結果を得ました。またLeeも独立に、Graham–Leeの結果の改良を与えました。

さらに最近になって、AH、実4次元の場合についてAndersonによるブレークスルーがありました。

Andersonの結果は「3次元球面$S^3$上の共形構造のうちスカラー曲率非負かつ平坦でない計量によって代表されるもの全体のなす空間を考え、標準的な構造の属する連結成分をとる。そのとき、その連結成分に属するすべての元は、4次元開球$B^4$上のAHアインシュタイン計量によって実現される」というものです。証明では、$B^4$上のAHアインシュタイン計量全体のなす空間を定義域とする「無限遠境界に誘導される共形構造を与える写像」を考え、その“写像度”を考察しています。

このような見方の持つ可能性の追求は始まったばかりです。次の論文も参照してください。